現代俳句の海図

プリンス・・・長谷川櫂

彼の人生は「俳句」につきると思います。eye
中学・高校から始めた俳句は、大学、社会人になっても続き、彼なりの形式が出来上がっていた筈です。
しかし、30歳のときに、今までの俳句を捨てて、飴山實に師事します。
それからというものの、我が行く道を自ら作り、先頭に立っていく俳人であります。。
そのためには、記者の二束わらじを止め、俳句の道一本にしたことは、並々ならぬ決意と覚悟が伺い知れます。
その点、僕はその場しのぎの適当な人間、将来の夢もなく、また稼ぎも少なく家族に迷惑を掛けておりますので、俳句は彼の言う『余技』でしかありません。coldsweats01
僕にないものを彼は持っており、また出来ないことを彼は実行しており、それが苦手意識をしているのかも知れません。

彼の句は「俗」と「雅」というより、『綺麗』と言ったほうがいいかも知れません。
落ち度なく、まさしくプリンスそのものです。
以前、『蝿 ニ連チャン』←タイトルだけでも、こちらはタイトルだけでもふざけておりますね。。。
で、お話しましたが、俳諧以降、「俗」を読むようになったと書きました。
「俗」を詠むということは、一般庶民を反映するということです。
人間は、俗っぽいところがないと、面白みがないかと思います。
これは、坪内稔典さんの句と比べれば一目瞭然です。(好き嫌いは別として)
もちろん、彼にも俗があるかと思いますが、俳句にもっと、そのようなところがあってもいいような気がします。cat

今年初頭に、結社「古志」を2011年に30歳となる大谷弘至副主宰に譲ると宣言されました。。
理由はいろいろあるようですが、彼の理想と追求は、まだまだ続きます。

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省く・・・中原道夫

<白魚のさかなたること略しけり>

彼の句をを認めるか認めないかはこの句につきると思います。eye
実際には省くことが出来ない成長過程を、彼は省くことが出来ると悟りました。
本の中でも書かれていることですが、この心境は俳句人生の賭けであります。
師匠能村登四郎も、この句には相当迷ったに違いないありません。

<瀧壺に瀧活けてある眺めかな>

この句についても、実際に有り得ない、彼自身の想像であります。
俳句と言うものは、作者の感性が大切です。flair
しかし、それを読み手が共感(納得)しないと意味がありません。
読み手が万人もいれば、いろんな感性、価値観があります。
万人に好まれる句は、果たしてどれくらいあるのでしょうか?

例えば、金子兜太先生の有名な句
<梅咲いて庭中に青鮫が来ている>
もちろん空想の世界であり、この句を良い句とする人がいます。

でも、何故この句が良いのか、理解できない方がいらっしゃるかと思います。
そこで「梅が咲き始めている庭が海の中のように青ずんで見えてきた」と解釈をつけると
どうでしょうか?
彼の想像どおり、青鮫たちが来ているように感じることが出来たでしょうかsign02
この句の一番のポイントは『庭中に』です。
これが『庭に』であれば、一匹の青鮫が来ていると思う人がいるかも知れず、それだと
庭中が青ずむことと想像することが出来ないかも知れません。

俳句は、作り手と読み手が揃って成り立つもの。
作り手ばかりが輝いても意味がなく、読み手もそれと同等の感性が必要となります。
僕も、自分の感性、価値観を磨いて、俳句を作るだけでなく、読み手としてしっかりしたものにしなければならないと思います。

なので、彼の句に触れれるのはまだまだ先になりそうです。cat

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エロス・・・櫂未知子

久々の「現代俳句の海図」シリーズです。note
ここから紹介するのは苦手とする俳人ばかりで、前回、田中裕明で括りにしようと思いましたが、去年末(2009年)に出版された『新撰21』でも、苦手意識が出てしまいました。
でも、今後の俳句を知るうえでも、このまま逃げてもどうしようもないので、講評です。cat
(短評、好ましくない評になるかも知れません。お許しを。。。coldsweats01

まずは、インパクトのある句thunder
 シャワー浴ぶくちびる汚れたる昼は
 セーターの中に貧しき丘がある
 ぎりぎりの裸でゐる時も貴族
 一人なら毛布を奪ふこともない
 佐渡ヶ島ほどに毛布を離しけり

知っての通り、当初は短歌を嗜んでおりましたが、先生の「あなたの歌は五七五で終わっている」と指摘されてからの転向です。
しかし、転向後、水を得た魚のように、彼女の句は気持ちの良いものとなりました。
聡明で斬新であると思いますが、これほどにインパクトに表現された方はいないかも知れません。
その場所、その時点の思いをストレートに言い表わしたのですから、女の情熱、エロスとは、男とは比較できず、僕はたじたじです。。。happy02
俳句とは、作り手と読み手があって、産み出されるものです。
作り手がいくら俳句として作ったとしても、読み手が共感しなくては俳句とはなりません。
(俳句でなければ、それは詩そのものです。)
彼女の句が発表され、いまも残っているということは、彼女に共感する読み手がいるということです。cat

同時期、上記の句以外に父を悼む句があります。
 無冠なる父へ瞬く春北斗
 眠るたび父は銀河に近づきぬ
 つややかな管つけ父は朧なり

自分の人生に俳句があり、俳句をすることで多く人と共感する。
若手の俳句に馴染まないのは、きっと俳句を通じて共感するところが少ないのではないかと思います。
ただ、綺麗な語彙やインパクトのあるものを並べても、読み手に伝わらなければ意味がありません。
多くの人と共感するためには、言葉、季語を知り、切れ字や型を信じ、いかにして自分の思いを捨て切れるかと思います。
古臭いかも知れませんが、自分の思いを伝えるだけの詩でなく、読み手にある思いを鼓舞できるような俳句が出来ればと思います。paper

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田中裕明 (現代俳句の海図より)

彼の最初に知った句は、「小鳥来るここに静かな場所がある」です。

でも、この句には何も感じませんでした。

逆にこれが俳句なんだとびっくりしたことを覚えております。coldsweats01

「理屈や意味のない世界が、詩の本来の世界です」のコメントに、俳句は俳句、俳人は俳人としか考えていなかった僕は衝撃を受けました。

俳句は詩、俳人は詩人shine

そこで運命的な句と遭遇しました。

「空へゆく階段のなし稲の花」

この句を触れた瞬間に、一気に情景やその他のものが頭を駆け巡りました。

同じようなシチュエーションで荒井由美の有名な歌「ひこうきぐも」がありますが、彼はそれを17文字で伝えてしまった。

本当に詩そのもの。何てすごい句なんだろうと、一番好きな俳人となりました。

<ひこうき雲 作詞:荒井由美>

白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない、そして舞い上がる

空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ

空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
空に憧れて
空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲

それからと言うものの、僕は「田中裕明」という人を追いかけ始めた。

もう彼がこの世にいないこと。若いときから俳壇で注目を浴びていたこと。そして自分が長く生きていけないこと・・・

そうして、僕はこの本を手に取って、誰が読むか分からないプログにそのことを書いている。

今となって彼から直接学ぶことが出来ないが、彼が伝えたかったことを感じ取ることはできるだろう。

そのためには、感性を高め、俳句にもっと触れて行きたいと思います。eye

彼が亡くなった歳に、あともう少しの僕は、果たしてどこまで近づくことが出来るのか・・・

彼の歳に、僕はどこまで俳句を理解しているのだろうか・・・

僕は、俳句の楽しさを教えてくれた彼に出会えてとても幸せ者であるcat

<感銘句> 旧字が主であるが見当たらないので一部新字です。

夏の旅みづうみ白くあらはれし

雪舟は多くのこらず秋螢

悉く全集にあり衣被

大き鳥さみだれうをくはへ飛ぶ

渚にて金澤のこと菊のこと

たはぶれに美僧をつれて雪解野は

小鳥またくぐるこの世のほかの門

初雪の二十六萬色を知る

小鳥来るここに静かな場所がある

蟻地獄赤子に智慧の生れけり

大人より子供の淋し竹の秋

眼鏡とれば我も古人や秋燕

空へゆく階段のなし稲の花

爽やかに俳句の神に愛されて

古くよき俳句を読めり寝正月

年ごとに友のすくなき浮巣かな

詩の神のやはらかな指秋の水

教会のつめたき椅子を拭く仕事

これよりの夜長の橋とおもふべし

糸瓜棚この世のことのよく見ゆる

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正木ゆう子(現代俳句の海図より)

彼女の魅力と言ったら、感性の鋭さかと思います。

この感性で、読み手の心を弄ぶとすれば、三橋鷹女先生でしょうかwobbly

 ひるがほに電流かよひゐはせぬか

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

 あたたかい雨ですえんま蟋蟀です

 月見草はらりと宇宙うらがへる

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

また、五七五調でありながら、わざと調子をずらし、その句の不安定さを増長するのは、彼女の持ち味かも知れません。

 サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる

 いつの生か鯨でありし寂しかりし

 乳房ふたつかかはりもなし冬霞

 俯瞰かくもさびしく雁でありにけり

 着膨れてなんだかめんどりの気分

 もつときれいなはずの私と春の鴨

この本を読んでびっくりしたのは、「総合誌や俳壇という一つの漠然とした集まりをそういうふうに鏡として機能させていただいているかもしれない」と言う発言です。

以前の記事で、「俳句は読み手がいることで成り立つ」と書いたことがあります。

読み手に作句を読まれ、その句の価値がつきます。

跳ね返りがあって、俳句は成り立つこということです。

また、その評価を受け入れて、俳句レベル向上に繋がります。

通常なら、それを「句会」や「結社(主宰)」などの、近い鏡を使うのですが、、彼女はそれを行わず、あえて遠い鏡を使っている。

彼女のようなことをしていると、読み手からの反応は早くても数ヶ月先、若しくは反応がないかも知れません。

そうなると、俳句というものは自分自身の戦いとなってしまいます。

それを補っているのは、やはり自分の感性を大事にしていることだと思います。

自分ごとですが、新しい句会で投句したら、こてんぱんにやられたことがあります。

それは、今までの俳句を否定されてようなものです。

そのような不安なものを抱えても、自分の道を貫く彼女に、読み手は更に魅力を感じるのではないでしょうかeye

<感銘句>

 万緑の森の入る目をガラスにして

 立ちすくむほどのあをぞら冬鷗

 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

 着膨れてなんだかめんどりの気分

 ライオンは寝てゐるわれは氷菓嘗む

 泳ぎたしからだを檻とおもふとき

 月のまわり真空にして月見草

 春の月水の音して上りけり

 水の地球すこしはなれて春の月

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石田郷子(現代俳句の海図より)

 ふたたび見ず柩の上の冬の蜂

 悪女たらむ氷ことごとく割り歩む

 柿食ふや不精たのしき女の日

 廃校の母校の桜吹雪かな

 苗代の一寸二寸人老いぬ

上記の5句は恩師山田みづえ先生の句です。

鑑賞句を比べて貰えばお分かりの通り、師の俳句と変わらず、正確で上品さが伝わってきます。

しかし、先生が主宰を勤めた「木語」を解散して、新たに「椋」を作りました。

どうしてでしょうか?

考えられるのは2つあり、一つは恩師の結社解散の意思。

もう一つは、彼女の俳句への新たな決意です。

結社を引き継ぐということは、並大抵のことでは出来ません。

何故なら、前任者たち築き上げてきたものを全てを背負い、さらに時代にあった良いものにして、次の世代に引き継がなくてはならないからです。

「伝統」

すごい重圧があるのに、さらに他の人たちを引きつけるカリスマ的な要素が主宰になければなりません。

彼女が恩師の結社を断ち切り、自分の結社を立ち上げたことには、ただ恩師の意思を引き継ぐのでなく、自分の俳句道の熱意(意気込み)があったからに違いありません。

僕は、「現代俳句の海図」で彼女を知りましたが、分かりやすく、しかも軽舟先生が述べている通り、正確な言葉でどの句もすんなりと受け止めれました。

でも、これはとても難しいことです。

なぜなら、ごくありふれた言葉の句は、同じようなものが出来やすく、他人の句に紛れ込んでしまう可能性があるからです。

なので、彼女が作句する苦労が、ひとつひとつの句に分かるような気がします。

予感。

そんな近くない頃に、僕はこの人の句にもっと触れているような気がします。

結社に入るとではなく、もっと触れていたい気がするからです。

<感銘句>

春浅し父の叱言を聞きにゆく

来ることの嬉しき燕きたりけり

涼風の黙つてゐればつのり来る

眠るとき銀河がみえてゐると思ふ

虫の闇だまつて通る虫のあり

びしょ濡れの狐出てくる蕗畑

木の実落つ誰かがゐてもゐなくても

さへづりのだんだん吾を容れにけり

ことごとくやさしくなりて枯れにけり

話したきことがたくさん桃の花

音ひとつ立ててをりたる泉かな

教会のやうな冬日を歩みをり

ゆつくりと近づいてくる冬の水

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岸本尚毅(現代俳句の海図より)

波多野爽波(青)一門の一人。

他に田中裕明、辻桃子、岩田由美らがいる。(因みに岩田由美さんは奥さんになります。)

「焼藷や空に大きく大師堂」

この句を読んだ時に、大師堂の上に真っ青な空が広がりました。

独身の時に、西新井に住んでいたことがあるので、西新井大師に行ったことがあります。

十何年前のことなのに、境内や門前のせんべい屋のことを思い出しました。

何という写生句!!

一瞬してこの人の魅力に惹かれてしまいました。

「青大将実梅の分けてゆきにけり」

二つの季語を違和感もなく一つの句に収めてしまう技巧。

それに田中裕明先生と同じ「青」としての俳句人生。また、「ゆう」創設時に一投句者として参加。

写生→花鳥風月→花鳥諷詠への誘い、それは『雅』を伴った俳句である証拠であり、俳句の無限を説いているのと思います。。

一度、この人に俳句のことを直接、学んでみたいです。

<感銘句>

鶏頭の短く切りておかれある

冬空に出てはつきりと蚊のかたち

海上を驟雨きらきら玉椿

蟷螂のひらひら飛べる峠かな

火の中に鈴の見えたるとんどかな

末枯に子供を置けば走りけり

焼藷や空に大きく大師堂

青大将実梅を分けてゆきにけり

盆の波ゆるやかにして響きけり

何もかも見ゆる月夜や桐一葉

歯あらはに菊人形の老女かな

火のかけら皆生きている榾火かな

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三村純也(現代俳句の海図より)

「現代俳句の海図~昭和三十年世代俳人の行方」(小川軽舟)を読んだ。

感想を書くにしてもどのようにすれば良いのか分からないが、心に残った人から記載します。

「神農の虎受け毛生え薬買ふ」

この句を詠んでもピンと来なかった。失礼ながら並みの句である。

しかし、この句の季題(三村氏は季語とは言わず季題と言われるので)は何かと分かると、この句の楽しさが分かる。

季題は神農祭。大阪の道修(どしょう)町の少彦名(すくなびこな)神社で行なわれる祭りです。

日本の薬の神様・少彦名命と中国の薬の神様・神農氏が一緒に祀われていることが分かると、この句の面白さが分かって来ます。

次に「月並の興りつつある虚子忌かな」

これは虚子の「私の死んだ後は必ず月並が起ると思う」という予言を踏まえた句。。。

要は、季題や書物などに親しんで理解してなくては作れない句なのである。

いやはや、軽舟先生が仰るとおり、見た目は掴みどころのない俳人である、しかし気になってしまう人。

先日、NHK俳壇でこの俳人を初めて見た瞬間に、僕はこの俳人の虜になってしまった。

この方のぱっとしない風貌、しかし、持っているオーラはすごい!!

系統は「ホトトギス」、この方に会うまでは坊城俊樹氏が系統の異端児かと思っていましたが、(俊樹ファンには失礼)

純也氏の方がその上をいっております。(間違いなく)

俳句初心者には難しい句ばかりですが、季題(季語)を勉強するには良いかもしれません。

僕は純也氏に嵌ってみま~~す。。。

<感銘句>

涅槃図に描かれて嘆かねばならぬ

麻雀といふ秋の夜の過し方

赤い羽根つけて外車の中の人

しゃぼん玉消えたくなつて消えにけり

朧夜の白波立つて親不知

雪嶺の我も我もと晴れ来る

夜桜の根の掴みゐる大地かな

厨にも祭ぞめきのありにけり

狼は亡び木霊は存(ながら)ふる

蓼咲いて余呉の舟津は杭一つ

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