「巣箱」 対中いづみ
第二句集です。
第一句集「冬菫」は先師田中裕明が選した「さきほどの冬菫まで戻らむか」から名づけたものであり、この句集は先師との思い出の作品です。
師を亡くした後は、その俳人の器を試されているような気がします。
同じく同じ師を亡くした島田刀根夫氏の第三句集「青春」のあとがきで「作品についての意見、助言を受けたりすることができない仕儀が、私にとって限りなく悲しく淋しい」と書かれております。
俳句は、作り手と読み手がいて成り立つもの。
読む人がいなければ、わざわざ有期定型に拘らなく、自分が思うことをそのまま言葉にすれば良いだけだと思います。
読み手がいるからこそ、同じ空間を得るために、季語を用いて、十七文字という一番短い詩にすることができるのかと思います。
一生にどれだけの俳人と出会い、どれだけの句を作ることができるのか。
十七文字にする無駄な作業を、僕らは魅了され、楽しんでいる。
この楽しさを忘れない限り、先師がいないとしても、ずっと俳句と一緒にいられるような気がします。
Ⅰ
まつすぐに山の雨くる桐の花
みづうみの一すぢ光る浮巣かな
Ⅱ
芹薺二日つづきの雪となり
ひらくたび翼涼しくなりにけり
口に入る風のつめたき穭かな
ふくろうの腹ふんはりと脚の上
Ⅲ
月読の光をとほる諸子かな
傘させば鳩の飛びたつ桜かな
蛸壺の縄濡れてゐる涅槃かな
滝道の木漏れ日を踏むばかりなり
狐火や文体いまも変はらざる
Ⅳ
つめたくて白魚ばかり明るくて
ものの芽や記憶の層といふところ
朝顔に雨粒の痕ありにけり
かたがはに雨の流るる蓼の花
葛の花ここは小舟を出すところ
懸大根忌日近しと思ひけり
Ⅴ
けふ寒く昨日あたたか鳥の恋
雨ながら鳥とんでゐる夏書かな
ワタクシハ猫派デ鷹派秋の風
寛と座れば秋の湯呑かな
この道は虻とほる道秋蝶も
伸びてゐるより折れてゐる葱ばかり
Ⅵ
電柱をくるくる廻る鳥の恋
さむさうなあたたかさうな巣箱かな
にはとりのふりむくまでの朧かな
パンよりもお米の好きな雀の子
若狭また水の国なり苗余す
裕次郎の写真大事に滝見茶屋
ぽつぽつと夏薊あり標あり
見てをれば星見えてゐる大暑かな
川蝦のうしろ歩きや盆の家
ローマ字と漢字の海図雁渡し
月上りきつたる海の暗きこと
ここ通るたび気味悪く秋の昼
大雪に埋もれむ人の世も毬も
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