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「バーコードの森」(豊里友行)・・・前編

彼との出会いは、プログで書いた「句集は苦手」にコメントを頂いてからです。
句の場合、作者の手から離れると、読み手の良し悪しとなってしまいますが、句集の場合は作者が作ったパラレル・ワールドなので、句集全体で受け止めなくてはなりません。
既に、彼は句集を出されているので、早速入手しましたが、これがまた、僕が作るものとは異なるもので、何と受け止めれば良いのか分りませんでした。

 教室出る夢探しの入道雲
 しゅるるる葡萄に濡れる風の髪
 樹のラインに湧き立つ雲は十九歳

冒頭3句です。
先ず彼の句を読むと、特有のリズムと季語がないことに戸惑いを感じます。
この時点で、俳句を楽しむ前に、「有季定型」という固定観点で触れていることに気づきます。
以前、話したことがありますが、「俳句は完成され洗練された様式」ですが、その様式は作者自身が決めることです。
あとは読み手がそれをどのように受け取るかです。

「無季自由律」を作る人で、最初から「無季自由律」の人は皆無であると思います。
やはり「有季定型」から始めた人ばかりだと思いますし、今でも「有季定型」を作ることもできます。
何故、このような句を作るといえば、固定観点に縛られることで、自分の伝えたいことが失ってしまうからです。
実際、自分の思いを読み手に伝えるためには、季語は要りませんし、五七五に拘る必要がありません。
第一、わざわざ分語にしなくても、口語でストレートに相手に伝えるほうが適宜ではないでしょうか。
それなら、普通の詩と変わらないかと思いますが、「俳句は一番短い詩」ですので、余分なものを削って、いかに読み手に共感を得ることですので、やはり俳句と言うべきでないかと思います。

言い換えれば、季語や五七五に縋っている僕らが、俳句に拘っているのではないかと思います。
例えば、「や」・「けり」の切れ字は本当に必要なのでしょうか?
若し、自分の伝えたいことだけを句にするのであれば、これらは余分で、もっと短くすることが可能です。
また季語にしても、取り合わせや詩情を膨らませることであって、自分の思いとは異質なものになってしまいます。

<感銘句>
 教室出る夢探しの入道雲
 じゃんと語尾笑う母を忘れてら
 ひょこひょこと地球を揺する鳩の頭
 腐葉土にノイズ走らせ都会の釘
 バッタ飛ぶマグマのように羽ひろげ
 イ(にんべん)とはぐれバーコードの森に入る
 ユウウツノイシハラムジンベイザメ
 咳すると炎のような闇動く
 手のひらが牛蒡になるまで夢掴む
 幽愁のキリン歩く夕焼けのビル

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句集・歌集etc」カテゴリの記事

コメント

ご紹介ありがとうございます。

投稿: 豊里友行 | 2010年5月29日 (土) 21時17分

豊里さま

とんでもないです。
こちらも、句集を頂いてから、半年が経ってしまい申し訳御座いません。
おかしなところが御座いましたら、ご指摘願います。
後半もよろしくお願いします。

投稿: 楚良 | 2010年5月31日 (月) 21時26分

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