伝統俳句=現代俳句 その2(作法と技法)
大正から昭和初期、俳壇を君臨していた高濱虚子は、昭和二年「花鳥諷詠」・「客観主体」を唱えます。
しかし、その俳句観の相違により。秋桜子が素十を中心として、「ホトトギス」を脱会して「馬酔木」を創刊します。
これを新興俳句と定義つけます。
この流れは、人間探求派などを輩出し、昭和22年に設立された「現代俳句協会」となります。
また伝統俳句を守ろうとする「ホトトギス」は昭和15年に「日本俳句作家協会」を設立し、のちの「日本伝統俳句協会」(昭和62年創立)となります。
ここで現代俳句と伝統俳句が対立しますが、違いはなんでしょう?
現代俳句には、自由律、無季句も含まれます。
今の時代に合った句を作るので、何れも俳句と定義つけられてしまいます。
伝統俳句は五七五調の定型で季語を重んじることです。
しかし、伝統俳句にしても、今の時代に作られているので、そこは現代俳句と変わりません。
また、現代俳句から『有季定型』を定義した「俳人協会」が発足しますが、伝統俳句には戻らず、別路線を辿ります。
それは、虚子が唱えた「花鳥諷詠」・「客観主体」が障害となったからです。
虚子が唱えたことが分裂を起こし、またさらに分裂を引き起こすとは、子規が知ったら泣いてしまいますね。。。
虚子が唱えた「花鳥諷詠」・「客観主体」は、その時代には適していたのかも知れませんが、今の時代に合っているかです。
「花鳥諷詠」・「客観主体」を俳句の『作法』と言ってしまえば、それ以外は俳句ではないとなってしまいます。
以前、金子兜太さんの作る句を、「前衛俳句(自己の内面性を表出した句)」として俳壇から排除されたことがありますが、今はどうでしょうか
くしくも、子規が近代文芸として、個人の創作性を重視して俳句を成立させたのに、虚子が唱えたものが正しいとしてしまうと、その時代の適した創作性が認められなくなってしまいます。
価値観、感性はその時代によって変わって行きます。
「花鳥諷詠」・「客観主体」は『技法』と考えたほうが、すんなりと行くと思いますが如何でしょうか。
今のご時勢、俳句を作るには「花鳥諷詠」・「客観主体」を好むけど、俳句を読むときも「花鳥諷詠」・「客観主体」でないと駄目だという人がいるでしょうか?
著名な先生や結社の考え、価値観は、作風・技法であります。
それに共鳴できる方々がそれぞれの先生、結社に師事を仰ぐと思います。
なので、俳句はその人の価値観、感性の違いだけなんですね。。。
(ここまで引っ張っておいて、「何だよー」と聞こえてきそうですが・・・)
今後の俳句をどのように捉えて、自分はどのように俳句と付き合っていくのか、以前にも『俳句の行方』で書きましたが、更に踏み込みたいと思います。
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コメント
こんばんわ。熱心に勉強されているのですねー。さっき俳誌「椋」のサイトをみていましたら、そら様のお名前ありました。投句されているのですか?
季刊になり、直販方式になった「俳句研究」で30句競作を募集していますが、その選者が今回は石田先生。(選者は一人のみで、毎回変わります)その結社の方がどんな句を詠まれているのかサイトで見ておりました。
締め切りが近い(4月7日)ので応募できるかどうか分かりませんが・・・。
投稿: 海音 | 2010年3月 2日 (火) 22時20分
海音さま
「椋」には半年ほど前から投稿しております。
他にも複数投稿しており、そのひとつはコラムを書いております。
「俳句研究」は興味ありますけど、読む時間はないし、そもそも購入するお金がないでーす。
(哀れなサラリーマンです。。。)
海音さまもいろんなところでご活躍されてますね。
若手のホープ。期待しております。
投稿: 楚良 | 2010年3月 6日 (土) 00時19分