« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

結社の行方・・・結社の魅力

前回の図式で、結社<主宰がありましたが、この人が結社を作れば事足ります。

しかし、結社の運営は大変で、そこまで乗りこなせる能力があるかといえば別問題です。

でも結社には、主宰のカリスマに惚れて入会するので、これを抜きに存続することは出来ません。

では、どうするかです。

また、結社=主宰でも、今度をどうしていくかも考えなくてはなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結社の行方・・・結社=主宰

結社は主宰がいて成り立つものです。

なので、結社=主宰と成ります。(同じ器でなくてはなりません。)

これが結社>主宰となると、結社を潰すしかありません。(現に後継者がいなく解散したところがないでしょうか?)

次に結社<主宰だと、無理をして結社を作る必要がありません。

どういうことか言えば、主宰と仲間がいれば、事足りるという事です。

では、どのように成り立つと言えば、ネット環境です。

今や結社関係なしのネット句会が盛んで、プログにしても直接意見が出来、それで充分といえる環境が出来上がっております。

無理して結社代を払ってまで、結社に属することがないのです。

というわけで、結社≒主宰の式が成り立ちます。

さて、若手のネット世代とネットを扱えるパソコン世代に、結社に入会するというメリットがあるのでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結社の行方(その3)・・・ネットの発達

パソコン世代も新メディア世代にも、ネットを活用している人もいます。

ネットにはホームページやプログがあり、検索をすれば自分が望むところにアクセスできます。

筆者が自分の述べたいことを書き、それを読む人がいることで成り立ってしまう世界。

では、結社での俳誌や月刊誌ではどうでしょうか?

 筆者の述べたいことが掲載されるのに1ヶ月→それに対しての反響→筆者の見解1~2ヶ月

と、少なくても2~3ヶ月の時間が掛かってしまいます。

週刊誌、日刊紙とそのスパンは短くなっていき、ネットではその時間とそのものがなくなってしまいます。

また、2ヶ月待っても、見解が違う場合はどうでしょうか?

僕でしたら、その雑誌をお金を払ってまで読まないでしょう。

でもネットでは、そう言ったことも、時間に制約なく、リアルに意見の交換が出来てしまいます。

また、出版に当たっては費用が掛かりますので、おそらく、主義・傾向・趣味を主とする同人誌はなくなるだろうと思います。

(若し、発行となると記録誌・記念誌としてです。)

筆者も読者も、直接、コミュニケーションを取ることで、更にその世界での楽しみが期待されます。

そこで、恩師とするべき人がネットでホームページやプログをやっていたらどうなるかです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結社の行方(その2)・・・ネット世代

結社離れが叫ばれるようになったのは何故でしょうか?

一つは、(その1)でも書きましたが、10~20代のネット世代です。

1980年代に始まったパソコンは、2000年になるとどこの学校でも取り上げられ、今の10~20代で使えない人という人はいないでしょう。

30~40代のパソコンは大人になってから馴染んだのですが、それを自分の生活に取り込んでいる人はまちまちだと思います。・・・僕はこの世代をパソコン世代と呼ばせて頂きます。

(因みに、50~60代は新メディア世代です)

でも今の10~20代は生活の一部となっているので、抵抗感なく携帯片手でネット生活が出来ます。

 ネットの利点:情報を素早く取得(いつでも、どこでも、だれでも)。簡単に自分が情報の発信源(言いたいことが書ける)

 ネットの欠点:待つということが出来ない。コミュニケーション不足(聞く耳を持てない)

→ 結社に例れば、投稿した句の結果が待てない。結果が悪ければ、それは選者が悪い。

ということに成りかねません。

別に若者が悪いのではなく、これが今のスタイルなのです。

結社の投句の結果は、どう頑張っても1ヶ月+α掛かります。

また、長年俳句をしている人が上位を占め、上達の早い人でもその結社の上位に食い込むには数年掛かります。

それらが我慢できる人たちなら、うまく取り込めると思います。

でも、今のネット世代はそれを待っていてくれない。

言い換えれば、「結社は時代に合ってきていない」と言うことです。

これば結社に限らず、月刊誌にも言えることで、笑い事ではありません。

では、どのようにしたら、取り込むことが出来るのでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結社の行方(その1)・・・結社とは

ご留意

僕は月刊誌は読んでおりません。理由は購入する経済的なことと購入しても読む時間がないからです。また、リンクで「週俳」をしておりますが、ほとんど読んでおりません。理由は読む時間がないからです。

なので、同じような意見や違うことを入っている人がいれば、教えて頂けないでしょうか?

それからコメントも頂ければ幸甚です。

俳句の勉強となりますので、宜しくお願いします。

それでは、始めます。

結社とは何かと問われたら、僕は「ブランド」ではないかと思います。

その人がその「ブランド」に所属していることの価値観・満足感が、結社を作り出しているのではないかと思います。

結社と言えば、師弟関係を意識しているようでありますが、実際にはどこまで気にしている方がいるのでしょうか?

気になり出すのは、ある程度、俳句をたしなんでからだと思います。

(週俳で筑紫磐井先生が、結社選びは2、3年から経ってからという意見があった筈ですけど、同意見です。)

http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/01/blog-post.html

では、その「ブランド」をどのように選ぶかです。

俳句初心者だと、先ずは俳句を教えて頂いた先生の属する結社に属すると思います。

でも、俳句をたしなんで行くと、その結社に満足できない方が出てくるかと思います。

そこで、新しい結社選びとなります。

あれやこれやと吟味しても、結局のところ、僕は主宰のカリスマ性に属することになると思います。

 カリスマ:人を心酔させる資質・能力・指導力・・・

でも、これらの結社選びも、2、30年後には数十社になってしまう可能性があります。

理由はネットの発達です。

今後は、昭和戦後生まれの方々が今後の俳句を牽引されていきます。

また、団塊世代の老後の楽しみで俳句人口は増えるとも考えられます。

でも、団塊世代が今後の俳句を引っ張っていくには、年齢には高すぎます。

いくら有望な方がいらっしゃったとしても、主宰と同世代なので、主宰と隠居になってしまうからです。

結社の増員に躍起になるのは良いのですが、それは自分が結社を引っ張っている間だけで、次の世代に繋げるものではありません。

なので、主宰が今後の育成を20、30歳代に目にしたところが残っていくと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結社の今後(予告)

2、30年後の結社は、若手を率いる数十社しか(一桁になるかも知れない)残らないと思います。

時間が出来ましたら説明しますが、それまでは考えてみて下さいませ

気がつけばアクセス1000件超えてますね。

どんな人たちが読んでいるのでしょうか?

他愛ないことでも良いので、コメント入れて下さいませ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

石田郷子(現代俳句の海図より)

 ふたたび見ず柩の上の冬の蜂

 悪女たらむ氷ことごとく割り歩む

 柿食ふや不精たのしき女の日

 廃校の母校の桜吹雪かな

 苗代の一寸二寸人老いぬ

上記の5句は恩師山田みづえ先生の句です。

鑑賞句を比べて貰えばお分かりの通り、師の俳句と変わらず、正確で上品さが伝わってきます。

しかし、先生が主宰を勤めた「木語」を解散して、新たに「椋」を作りました。

どうしてでしょうか?

考えられるのは2つあり、一つは恩師の結社解散の意思。

もう一つは、彼女の俳句への新たな決意です。

結社を引き継ぐということは、並大抵のことでは出来ません。

何故なら、前任者たち築き上げてきたものを全てを背負い、さらに時代にあった良いものにして、次の世代に引き継がなくてはならないからです。

「伝統」

すごい重圧があるのに、さらに他の人たちを引きつけるカリスマ的な要素が主宰になければなりません。

彼女が恩師の結社を断ち切り、自分の結社を立ち上げたことには、ただ恩師の意思を引き継ぐのでなく、自分の俳句道の熱意(意気込み)があったからに違いありません。

僕は、「現代俳句の海図」で彼女を知りましたが、分かりやすく、しかも軽舟先生が述べている通り、正確な言葉でどの句もすんなりと受け止めれました。

でも、これはとても難しいことです。

なぜなら、ごくありふれた言葉の句は、同じようなものが出来やすく、他人の句に紛れ込んでしまう可能性があるからです。

なので、彼女が作句する苦労が、ひとつひとつの句に分かるような気がします。

予感。

そんな近くない頃に、僕はこの人の句にもっと触れているような気がします。

結社に入るとではなく、もっと触れていたい気がするからです。

<感銘句>

春浅し父の叱言を聞きにゆく

来ることの嬉しき燕きたりけり

涼風の黙つてゐればつのり来る

眠るとき銀河がみえてゐると思ふ

虫の闇だまつて通る虫のあり

びしょ濡れの狐出てくる蕗畑

木の実落つ誰かがゐてもゐなくても

さへづりのだんだん吾を容れにけり

ことごとくやさしくなりて枯れにけり

話したきことがたくさん桃の花

音ひとつ立ててをりたる泉かな

教会のやうな冬日を歩みをり

ゆつくりと近づいてくる冬の水

| | コメント (2) | トラックバック (0)

絶滅寸前の季語・・・運動会

先日、子供たちの運動会を見に行きました。

(ここの時点で、「ヘッ!!」と思われた方はアウトです

ここ最近の運動会を初夏に行うことが多くなりました。

理由は、秋のイベントが多く、また他学校や地域とのバッティングを避けるためです。

問題なのは、「運動会」を秋の季語としていることです。

運動会と言えば、お祭りや盆・正月と並んで、町(村)中総出のイベントだった筈です。

(今も引き継がれているところもありますが、)地域によっては、学校内だけのイベントなってしまい、さらに時期がずれてしまったことです。

季節の野菜が年中食べれるようになって季節を感じなくなったのと同じぐらいに、(僕にとっては)一大事です。

注記:一年中食べれるようになっても、きちんとした時期に食べる野菜は格別です

無論、秋に「運動会」をするところは良いのですが、この時期に行ってしまった子供たちが、俳句に触れたときに、この季語をどう思うかです。

季語には面白いものがあります

 春・・・ぶらんこ、風船、風車、石鹸玉、遠足
 夏・・・甘酒、白シャツ、白靴、砂糖水、釣堀
 秋・・・爽やか、高きに登る、唐辛子
 冬・・・納豆、布団、寒卵、煮凝、竹馬 etc

季語とは、その時期をイメージを出来る季の詞(ことば)です。

上記の季語は、勉強すると納得!!と、いうことになるかもしれませんが、初夏に行ってしまった運動会を、今の子供たちが季語として受け入れてくれるかどうかが微妙です。

ここは、夏井いつき先生に認定してもらいましょう!!

http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B6%E6%BB%85%E5%AF%B8%E5%89%8D%E5%AD%A3%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8-%E5%A4%8F%E4%BA%95-%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8D/dp/4490105800/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1245029691&sr=8-2

| | コメント (5) | トラックバック (0)

梅雨の花

あぢさゐの八重咲くごとく彌(や)つ代にを

 いませわが背子 見つつ偲はぬ (橘諸兄:万葉集より)

恋の歌のようですが、73歳の歌だそうです。

そうなると、どんな気持ちでこの歌を作られたのでしょうか・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

18文字

6月6日の「俳句王国」の主宰、7日の「NHK俳句」はゲストは金子兜太先生でした。

俳句界の重鎮、テレビを通しても現場のピリピリ感が伝わってきます。

そこで、気になったのがタイトルの「18文字」でした。

兜太先生の提出句

 森林浴かすかに光る魚の音も(しんりんよく かすかにひかる うおのおとも)

 麦の秋天海駄菓子をふとつまむ(むぎのあき てんかいだがしを ふとつまむ)

1点は19文字、2点目は18文字です。

「麦の秋~」の方はすんなり入りました。

しかし、「森林浴~」は、どうしても下五が気になってしまいます。

どうして、音を『ね』と読まないのか、また『も』をつけたりする必要があるのでしょうか?

意味が分かりますが、理解が出来ません。

兜太先生曰く、「分かる人にはこの句がいいことが分かるんだ」そうです。

これは、(たじまさん曰く)「技術の進歩」は俳句を俳句たらしめていくのだとすれば、やはり、「俳句の限界は、俳句自身だ」ということになのですかね。。。

続けて、NHK俳句の入選句から 「不安定を以つて均衡鳰浮巣(川崎 完治さん)」

兜太先生はこの句を 「不安定を以つて均衡鳰浮巣」にしました。

18文字になるのですが、俳句には、リズム感が大切だと言われておりました。

確かに『の』を入れることで、この句はしっかりしました。

俳句は、作り手と読み手がいることで成り立つと思います。

読み手のアドバイスで、良句が更に良句になるのは、とても素晴らしいことです。

(詠み手が先生、恩師だったら尚更です。)

でも、怖いことは、作り手が『こうだ!!』と言ってしまうことです。

そうなると、その俳句はそれ以下でも、それ以上でもなくなり、それでその句は終わってしまいます。

僕は、自分から離れてしまった句は、何かすることもなく、読み手に任せるしかないと思っております。

読み手のアドバイスを聞いて、更に自分の俳句を高めるのが、上達の近道だと思います。

---------------------------------------------------

無論、作り手に意見を求め、賛同する方もいます。

それによって、「結社」が成り立ちが、その後、どうなるかは別の記事にて

----------------------------------------------------

俳句王国放映最後の、ゲスト高橋洋子さんと兜太先生のバトルは面白かったです。

高橋さんも作家としてのプライドがありますから、他の人ならへこんでしまうところを返答しておりました。

僕も自分の意見をきちんと持って、俳句に望みたいと思います。

その為には、俳句の技術を高め、理解できない句を少なくしていきたいものです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

自分誌

句会の主宰より「自分誌」を頂きました。

既に2冊発行され、頂戴した本で3冊目となります。

「卒寿までに生き続けれた記念に、もう一度自分をまとめてみたいですけれど・・・」での作品です。

という訳で、この本は「傘寿=90歳」の記念誌となります。

内容は、俳句だけでなく、エッセイや先代の鑑賞記をまとめてあります。

その中から

 春を呼ぶ此の人「五体不満足」(平成11年)

 新世紀何も変らぬお正月(平成13年)

取り上げた2句は、その時代を反映した句です。

しかも読み手がなるほど、そうだったと共感できる句です。

作り手が感じたことを、そのまま俳句にしたもの。

時代遅れだの、理論とかで話すことはできないかと思います。

その時代を認識して、作り手、俳句そのものを見るべきだと思います。

それで、自分がどう感じるのか。

諸先輩から学ぶことはたくさんあると思います。

何故なら、俳句だけでなく、人生の先輩だからです。

「異物」と感じることがあるかも知れませんが、それはその人の人生から生まれてきたのであって、否定することはできません。

否定することはその人の人生を否定することになりますし、間違えれば、自分を否定されるかも知れません。

また、人生を重ねるうちに「異物」だったものが、受け入れる日があるかも知れません。

なので、分からないものは、否定でも肯定でもなく、そのままにしておくのが適切だと思います。

いずれ、その「異物」に触れるときがあれば、そのときには自分の主観が変わっているので、その時に論じれば、よろしいかと思います。

ちょうど、たじまさんや沙希さんのプログを読んで、自分はどう思うのかと考えているときに、主宰から「自分誌」が届いたので、まとめて見ました。

たじま屋のプログ

http://moon.ap.teacup.com/tajima/

鯨の海星

http://saki5864.blog.drecom.jp/

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「て・に・は・を」の変化

5/30放送の「俳句王国」で

『喉もとに響いて滝の日暮かな』(村田篠)がありました。

選者の廣瀬直人先生も「”て”の使い方がうまい」と言っておられました。

これを切れ字の「し」とか「や」しても、すんなりと「滝の日暮」が入ってきません。

最近の傾向(僕もそうですが)、禁じ手だった「て」の使う句が多くなった気がします。

<広辞苑>

(接続助詞)

①後に述べる内容よりも先行する内容を表す語句を受ける

②後の事態の成り立つ条件を示す

③ある動作・作用・状態を表す語句を受け、動詞・形容詞に続ける

④対句的に語句を並べ、対等・並列・添加の関係で前後を続ける

⑤反復・継続を表す

(終助詞)

①活用語の終止形に付き、相手からも納得されるものとして自分の考えを述べる

②種々の表現に添えて、柔らかく念を押す

十七文字の中で重要なのは季題です。

出来れば、季題+切れ字+非季題(若しくは反対の順序)が理想ですが、そううまくできるわけではありません。

50音すべて「切れ字」だと言われておりますが、タイトルの「て・に・は・を」を使うことを嫌いました。

何故でしょうか?

一番良いのは季題と非季題がぶつかり、結び合い、そして十七文字とすることです。

季題は多くのことを語ります。

それに、非季題をくっつくことで作り手の驚き・感動を、読み手に伝えます。

なので、「切れ字」を使って、そのことを強調します。

しかし、「て・に・は・を」を使うと季題と非季題が繋がってしまうので、強調が弱まってしまうので嫌われています。

でも、最近の「て」の使い方を見ると、俳句の作り方・読み方が変わったようがします。

もちろん、昔から「て・に・は・を」を使った句はありますし、今だって「切れ字」は有効活用されています。

何が変わったといえば、題材(句に出てくるもの)の動作に感動を持つようになったことです。

毎日、忙しい中に、ちょっとひとつのことを見ていたら、このようになったという感動。

普段忘れていた当たり前のことを、句にして、また読み手もそれに対して感動する。

一昔前は、夕飯は家族と一緒に食べるとか、休みの日は共通の仲間をひとつのことに熱中する、余裕な日々が合ったはずです。

でも今の世の中は、毎日の生活に追われ、ゆとりのない日々を送っております。

「て」という、動作を止めて、周りを見渡し、感動を得ることも必要なのではないかと思いました、

それで、当たり前のことに安らぎ・くつろぎを与え、また、明日への糧となる。

今、求められていることが、俳句にも出ているようで、コメントしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

星の地図(神野紗希)

俳句王国のアシスタントをされている方です。

どこの結社に属しておらず、思惟といえば「いつき組」ですかね。

なので、どこの俳人の方とも、気軽に接されて、彼女のスマイルに誰もがうっとりです。

(去年、地元にお見えになったときに、一緒に写真を撮って貰いました。家内には内緒です。)

大高翔さんのときに触れましたが、彼女の俳句には恋愛ものはありません。

10代、20代の方なので、恋愛句があっても良いのですが、「俳句王国」にも出てきません。

唯一はこの2句のみです。

 星涼しバス揺れるたび触れる肩

 セーターの袖の余りて告白す

これが彼女のスタイルであり、これが多くの方に好かれているのかも知れません。

1句目に彼女を一躍有名にした「起立礼着席青葉風過ぎた」があり、(『通った』ではなく、『過ぎた』と言ったところが、この句の優れたところです。)あと学生らしい句が続きます。

でも、恋愛句ないです。。(くどいですね

でも、否定句が多いことに気づきます。

 虹ほどの言葉は見つからぬだろう

 直線を引けぬものさし桜桃日

 不等式解けず夏木立の中へ

 風鈴の買われようとはしておらず

 ひきだしに海を映さぬサングラス

 曼珠沙華を失くしたような顔をして

 鬼灯や出来ぬ約束してしまう

 橋からは見えぬ満天紅葉かな

 寂しいと言い私を蔦にせよ

 溜め息さえ白くてどうすれば良いの

 頑張れと言いたくて言えなくて雪

 花びらのわたくしを避けるのは何故

 空梅雨やサイコロ振れば1ばかり

思春期の自分の思いとは裏腹に、別の自分が自分を演じている。

本当の自分はこっちにいるのに、誰も気付かないジレンマ・・・

でも、このジレンマは句集の最後には消えていきます。

先日、賞を頂いた友人の佐藤文香さんや高柳克弘さんが(いよいよ)句集を出されます。

紗希さんもそろそろ第2句集を出されてもいい時期ではないでしょうか?

どのような句集になるのか、とても楽しみです。

<他 感銘句>

この秋桜刈ったら風になるつもり

水澄むや宇宙の底にいる私

踏切を越えてより月肥大せり

月代や机上に広げたる海図

目を閉じてまつげの冷たさに気付く

アンテナをごちゃごちゃとして寒波来る

冬薔薇見渡せば海少しある

マフラーを巻いて海鳴り封じ込む

シーソーの片方ばかり花の散る

まなざしを虹へ反らしてしまいけり

月の味問うノルウェーの絵本かな

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »