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古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)

『俳句研究』に平成16年1月号から12月号まで連載された「古池の彼方へ」をまとめる。

僕はこの本を読んでおりません。ネット内の講評のみでのコメントです。

タイトル「古池に蛙は飛びこんだか」は、もちろん芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」である。

本の中は、この他にも芭蕉ことを彼なりの解釈をしております。

「古池や・・・」句の成立経緯を伝えている蕉門の十哲に数え挙げられる各務支考の『葛の松原』を論拠として下の句「蛙飛びこむ水の音」が先に作られ、上の句を同じく蕉門の十哲宝井其角がすすめた「山吹や」を廃し「古池や」にしたことで古池は実在の池ではなく、下の句から芭蕉が生み出した心の世界であるとし、実際に古池に飛び込んだ蛙を見て詠んだものではないと著者は展開する。

俳句を作る人にとって、季題の変更はよくあることで、そんなことをわざわざ言うことでもないかと思います。

問題は、如何に季題(季語)を理解して、句に組み込むかです。

十七文字になった瞬間に、俳句は作り手から読み手に引き継がれます。

だから、この句をどう感じ取るかは読み手次第です。

なので、句に触れ合ったときに、読み手がどのように思うかは分かりません。

その中で、読み手が共感できれば、作り手は満足ではないのでしょうか?

俳句はもちろん、本だって、その人によって考え・感動が違うし、また読み直せば、また変わります。

だから、「これはこうなんだ!!」の断定ではなく、「こういう風に感じられませんか?」が適切ではないのかと思います。

さて、本題に戻りますが、古池やの「や」は、切れ字にすることでアクセントがつき、古池の静寂さを強めております。

「古池は何処にあったのか?」・・・読み手の世界

「蛙は何匹いたのか?」・・・1匹。連続して飛び込まれては、古池の静寂間が損ないます。(金子兜太先生は上記「古池」と「蛙」には別論を唱えております。)

「蛙は現実に飛びこんだのか?」・・・読み手の世界

「水のおとは、どんな音だったか?」・・・読み手の世界

「芭蕉は何に開眼したのか?」・・・17文字に完成させること

「蕉風とは何か?」・・・読み手の解釈

「古池の句以降の芭蕉の句は、どう変わったか?」・・・読み手の解釈

あと『かじか』ですが、普通に訳すと河鹿蛙ことになりますが、河鹿ではありません。何故なら、池には河鹿はいません。それで、何の蛙かは読み手の中の蛙です。

それにしても、この一句だけで、本一冊が出来上がり、またNHK(その時歴史が動いた)でも取り上げるとは、この句の素晴らしさが分かります。

まさに、作り手を離れて、読み手に引き継がれていく名句・・・

こんな句が生きている間に一句出来れば、最高な人生になるのですがね

注記:2009.6.16内容を見直ししました

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