言い切ると委ねる
俳句は一人では出来ません。
作った句を詠み手がいることで成り立ちます。
でも、作り手の言いたいこと(驚き)が読み手に伝わるかとどうかは疑問です。
なので、作り手は読み手と共鳴すために、十七文字を組み立てます。
それには、季語や切れ字などありますが、あと、句の言い回しが必要となります。
要はタイトルどおり、自分の意思を言い切るか委ねるかです。
例えば、委ねる場合の句は
「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)があります。
蕪村は、ただ、菜の花と月と太陽を言っただけです。
あとは、読み手に任せております。
逆に、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)
自分の見たものをずばり言い切っておりますが、
2句とも情景が浮かびます。
でも、何でそんなことが出来るのかと言えば、読み手の記憶(思い出)を使うことです。
「菜の花」と聞けば、読み手のそれぞれの思い出が蘇って来ます。
その思い出に月と太陽を入れるだけ。
なので、句=読み手の情景だけで、良句となります。
「戦争」の記憶は暗いもの、「廊下の奥」と言えば読み手全員が持っている校舎の中の、近づかない(行かない)場所をイメージするのかと思います。
なので、戦争とは読み手の記憶の奥にあるものだと教えてくれる句、このことを発見させてくれたことが優れていることになります。
俳句とは新しい発見、驚きを共鳴することと言いましたが、読み手の記憶を読み出させることが大切です。
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