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2009年5月

生活俳句

前回の続きです。

作り手がいくら読み手と共鳴しようとしても出来ないことがあります。

それは人生経験です。

家族のことや海外のことを俳句にしても、読み手の記憶がなければ、共鳴は出来ません。

なので、句会や投稿する場合は、読み手(選者)がどんな人なのか、わきまえなくてはなりません。

中村草田男先生は、人の内面心理を詠むことを追求し人間探求派と称せられております。

僕が思うのは、いま自分が生きている中で触れた「驚き」や「新しいこと」を俳句にしたのではないかと思います。

また戦時中に、『伝統俳句に対して「季題趣味」だと批判し、新興俳句に対しては「季題軽視」だと論難した』と言っております。

それは、俳句するにあたっては、今の自分(生活)が土台にないと出来ないということ。 →→空想だけでの俳句はしてはいけないと解釈しました。

山頭火先生や放哉先生が、今も好かれているのは、自分たちと変わらない目線=生活から句を作っているからだと思います。

読み手の記憶、思い出だけなく、誰にでも持っている価値観でも、俳句は成り立つということです。

その昔、家庭、家族の句などを切り開いた草田男先生や、自分から湧き上がる感情をそのまま詠った田中裕明先生など、普段の生活の中から作り出した俳人、俳句は数多くあります。

多くの句が分からないことがありますが、それは自分の力がないのではなく、記憶、価値観がないだけです。

多くのことを触れて感じることで、自分を高め、俳句を感じること。

恋、結婚そして子育てで出来る俳句、また新しい感覚の若手俳句。

分からなくてもお互いに価値観を高め、共鳴し、また新しい俳句が触れることが出来ると思います。

僕もまだまだ初心者ですが、たくさんの俳句に触れ、いろんな人の考えを学び、自分の俳句を楽しんで行きたいと思います。

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言い切ると委ねる

俳句は一人では出来ません。

作った句を詠み手がいることで成り立ちます。

でも、作り手の言いたいこと(驚き)が読み手に伝わるかとどうかは疑問です。

なので、作り手は読み手と共鳴すために、十七文字を組み立てます。

それには、季語や切れ字などありますが、あと、句の言い回しが必要となります。

要はタイトルどおり、自分の意思を言い切るか委ねるかです。

例えば、委ねる場合の句は

「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)があります。

蕪村は、ただ、菜の花と月と太陽を言っただけです。

あとは、読み手に任せております。

逆に、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)

自分の見たものをずばり言い切っておりますが、

2句とも情景が浮かびます。

でも、何でそんなことが出来るのかと言えば、読み手の記憶(思い出)を使うことです。

「菜の花」と聞けば、読み手のそれぞれの思い出が蘇って来ます。

その思い出に月と太陽を入れるだけ。

なので、句=読み手の情景だけで、良句となります。

「戦争」の記憶は暗いもの、「廊下の奥」と言えば読み手全員が持っている校舎の中の、近づかない(行かない)場所をイメージするのかと思います。

なので、戦争とは読み手の記憶の奥にあるものだと教えてくれる句、このことを発見させてくれたことが優れていることになります。

俳句とは新しい発見、驚きを共鳴することと言いましたが、読み手の記憶を読み出させることが大切です。

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不況の俳句・・・残す俳句とは

4/5毎日俳壇で「おしまひは不況の話花見客」(相坂康)が鷹羽狩行先生の特選句となっております。

(以下は、自分は一度も投句したことがなく、一人よがりと思ってもらって結構です。

この不況を反映した句であり、陽気に飲んだり食べたりしても、最後は本音が出て、現実に戻される。。。とても良い句であります。

でも、これが名句というと、違うかと思います。

どういう意味かと言えば、今のご時勢(不況)の句だからです。

理由は簡単です。

これが景気の良い時に提出された句ならどうでしょうか?

僕が思うには、このような句は句会などに適した句であり、提出するような句ではないと思います。

何故、この句が特選句になったのかは、選者に聞かなくてはなりません。

でも、若し、僕が句会以外で提出する場合は、

 おしまひは不況のことを花見客

にして、ご時勢ことは消します。

いつのご時勢であったとしても、酔った客が最後まで楽しく帰られて行くことが分かります。

俳句は別に本当のことをリアルに言うことはありません。

作り手が驚いたことを俳句にして、それを読み手がどのように感じて、共鳴できるかが問題なのです。

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結社とは・・・自分の俳句を伸ばすためには

ネットサーフィンをしていて、筑紫磐井さんの時評があったので、コメント

http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/01/blog-post.html

最近、結社の存続の話題にこと絶えないが、何故だろうかと掘り下げたいと思います。

お話したいのは、俳句をどのように触れ、俳句をどのようにして行きたいのかです。

初心者(特に中高年層)は、興味を覚えた時に俳句に触れるので、どうしても初めて出会った先生についていくことになり、自然に先生の結社に加入します。

今まで作句をしていないので見よう見まねで始めますが、指導も添削も先生が行うことになるので、どうしても結社の俳句となり、他の俳句に触れることが少なくなります。

なので、先生(結社)を超えることが出来なくなります。

では著名な俳人はどうしているかと言うと、先生、結社に関係なく、いろんな(著名・無名・古今・老若)俳人の俳句に触れて、独自の俳句を作っていることです。

また、死ぬまで完成された句は生まれないと言うこと。

名句、良句は自分が作るのではなく、詠んだ人が作るものです。

なので、この句は私の句だ思った瞬間に、その人の俳句人生は終わってしまいます。

常に探究心で、前へ前へと新しい句を作ることが、俳句を伸ばすことになります。

でも、あの俳句(俳人)、この俳句(俳人)とふらふらとするのは禁物です。

いつまでも自分の俳句が出来ません。

この俳句(俳人)と思ったら、先生、結社に関係なく、そこに突き進むこと。

それで、自分なりの考えが出来たら、それを自分の俳句にする。

それを繰り返すことによって、自分の俳句が確立します。

誰が作ったことが分かれば、作風は変わっても良いと思います。

考えも固執することなく、柔軟に接することも大切。

常に俳句に触れることが、人生の楽しみに加えることがよろしいかと思います。

(初心者にしてのアドバイスでした

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馬上試合の勝ち名乗り

この勇気と武勲と大胆さを持つ輝かしい騎士は、いったん冑を取れば、礼儀と忠誠を寛大の人になる。彼は戦場でも宮廷でも立派な人物だ」(13世紀:仏詩人、5/15毎日新聞より)

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古池に蛙は飛びこんだか(長谷川櫂)

『俳句研究』に平成16年1月号から12月号まで連載された「古池の彼方へ」をまとめる。

僕はこの本を読んでおりません。ネット内の講評のみでのコメントです。

タイトル「古池に蛙は飛びこんだか」は、もちろん芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」である。

本の中は、この他にも芭蕉ことを彼なりの解釈をしております。

「古池や・・・」句の成立経緯を伝えている蕉門の十哲に数え挙げられる各務支考の『葛の松原』を論拠として下の句「蛙飛びこむ水の音」が先に作られ、上の句を同じく蕉門の十哲宝井其角がすすめた「山吹や」を廃し「古池や」にしたことで古池は実在の池ではなく、下の句から芭蕉が生み出した心の世界であるとし、実際に古池に飛び込んだ蛙を見て詠んだものではないと著者は展開する。

俳句を作る人にとって、季題の変更はよくあることで、そんなことをわざわざ言うことでもないかと思います。

問題は、如何に季題(季語)を理解して、句に組み込むかです。

十七文字になった瞬間に、俳句は作り手から読み手に引き継がれます。

だから、この句をどう感じ取るかは読み手次第です。

なので、句に触れ合ったときに、読み手がどのように思うかは分かりません。

その中で、読み手が共感できれば、作り手は満足ではないのでしょうか?

俳句はもちろん、本だって、その人によって考え・感動が違うし、また読み直せば、また変わります。

だから、「これはこうなんだ!!」の断定ではなく、「こういう風に感じられませんか?」が適切ではないのかと思います。

さて、本題に戻りますが、古池やの「や」は、切れ字にすることでアクセントがつき、古池の静寂さを強めております。

「古池は何処にあったのか?」・・・読み手の世界

「蛙は何匹いたのか?」・・・1匹。連続して飛び込まれては、古池の静寂間が損ないます。(金子兜太先生は上記「古池」と「蛙」には別論を唱えております。)

「蛙は現実に飛びこんだのか?」・・・読み手の世界

「水のおとは、どんな音だったか?」・・・読み手の世界

「芭蕉は何に開眼したのか?」・・・17文字に完成させること

「蕉風とは何か?」・・・読み手の解釈

「古池の句以降の芭蕉の句は、どう変わったか?」・・・読み手の解釈

あと『かじか』ですが、普通に訳すと河鹿蛙ことになりますが、河鹿ではありません。何故なら、池には河鹿はいません。それで、何の蛙かは読み手の中の蛙です。

それにしても、この一句だけで、本一冊が出来上がり、またNHK(その時歴史が動いた)でも取り上げるとは、この句の素晴らしさが分かります。

まさに、作り手を離れて、読み手に引き継がれていく名句・・・

こんな句が生きている間に一句出来れば、最高な人生になるのですがね

注記:2009.6.16内容を見直ししました

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17文字の孤独(大高翔)

今、読んでいる本を会社に忘れてしまったので、整理中のダンボールの中からチョイス

発行1997年、今から12年前になります。

著者は当時20歳、その前年に発行した句集「ひとりの句集」が注目を浴び、この17文字の孤独が大ベストセラーとなります。

当時は、黛まどかさん「B面の夏(1994年)」もベストセラーとなっており、一時、俳句ブームとなります。

その彼女も今年32歳。2002年に結婚され、一児の母親でもあります。

==注意:ここからは、まだ夢見る人たちは読まないで下さい。ベストセラーとなっておりますので、いまでも中古で売られております。ご興味のある方は読んでみて下さい==

久しぶりに読み返しましたけど、あの当時の俳句がこんなにも純真だとは、読みながら恥ずかしくなりました。

恋愛、青春、未来と、夢が散りばめられていて、すでに既婚の僕にとっては、こんな昔があったのかと、ギャップが埋まりません。。。無論、作句しろと言われても無理です。

でも、最近の若者の句集(プログに取り上げた)「海藻標本(佐藤文香)」、(いつか記事にする)「星の地図(神野紗希)」の句集には、純愛の句はなかったなぁ・・・

時代を反映すると言うのか、昔は夢を追いかける純真な乙女の人もいたんだなぁと、恍惚

春の部だけで、本当に恥ずかしくなって終了です

感銘句

捨てられるだけ捨てていこう春休み

春驟雨あなたの声は聞こえない

春が散るあまりにもうすきわたしの胸

胎内のリズム思い出す春の光

春夕日この両手には何もない

ペンダント冷たい重さの花の雨

春の水あふれひとりを持てあます

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岸本尚毅(現代俳句の海図より)

波多野爽波(青)一門の一人。

他に田中裕明、辻桃子、岩田由美らがいる。(因みに岩田由美さんは奥さんになります。)

「焼藷や空に大きく大師堂」

この句を読んだ時に、大師堂の上に真っ青な空が広がりました。

独身の時に、西新井に住んでいたことがあるので、西新井大師に行ったことがあります。

十何年前のことなのに、境内や門前のせんべい屋のことを思い出しました。

何という写生句!!

一瞬してこの人の魅力に惹かれてしまいました。

「青大将実梅の分けてゆきにけり」

二つの季語を違和感もなく一つの句に収めてしまう技巧。

それに田中裕明先生と同じ「青」としての俳句人生。また、「ゆう」創設時に一投句者として参加。

写生→花鳥風月→花鳥諷詠への誘い、それは『雅』を伴った俳句である証拠であり、俳句の無限を説いているのと思います。。

一度、この人に俳句のことを直接、学んでみたいです。

<感銘句>

鶏頭の短く切りておかれある

冬空に出てはつきりと蚊のかたち

海上を驟雨きらきら玉椿

蟷螂のひらひら飛べる峠かな

火の中に鈴の見えたるとんどかな

末枯に子供を置けば走りけり

焼藷や空に大きく大師堂

青大将実梅を分けてゆきにけり

盆の波ゆるやかにして響きけり

何もかも見ゆる月夜や桐一葉

歯あらはに菊人形の老女かな

火のかけら皆生きている榾火かな

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xxx誌4月号掲載句

○手袋の片方拾ふ通夜の路地

○マフラーに笑窪を隠す女学生

 北風や坊主頭に野球帽

 男には足跡残す雪女郎

 梅探る妻の歩みに合はせけり

 携帯電話の電波届かぬ山笑ふ

マフラーについては他俳誌にて添削句となっておりました。

選者によって句に対する考えは違います。

どんな俳句を作るのか、誰を師と仰ぐのか・・・

まだまだ初心者レベルを達していないので、もっと俳句に触れ合って、my styleな俳句を作りたいです。

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『雪梁舎』俳句まつり・宗左近俳句大賞受賞!(海藻標本)

以前プログにも紹介しました「海藻標本」(佐藤文香)が、受賞しました。

http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-247.html

3月には読み終えて、いつかはコメントしないと思っておりましたが、あっという間にGWも終わってしまいました。

なので、急いで投稿です。

感想は、「何度も読み直せて、また新たな発見!」

普通の句集は一回読めばそれで終わり(何年か経って、自分の生活環境や人生観が変わればもちろん読み直すこと出来ますが)、この本はいつでもどこでも読み直せるということ。

もちろん、感銘句はその都度変わります。

いろんな俳人がいますが、ミステリアスな方の一人です。

受賞を受けて、増刷決定したそうですので、手にとって見て下さいませ

感銘句 

 海に着くまで西瓜の中の音聴きぬ

 アイスキャンデーの果て材木の味残る

 月白や滑走路より人離れ

 太刀魚や遠き光を撥ね返し

 待たされて美しくなる春の馬

 霧吹の口淋しさや春の宵

 靴音を捨て花人となりにけり

 あけがたの詩集に頁毎の冷え

 標本へ夏蝶は水を抜かれゆく

 拾はれてより色を増す椿かな

 火の匂ひ移して秋の袷かな

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6時間耐久ラブワゴン

週間俳句 句会スペシャルより

http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/05/02.html

句会に参加するだけでも大変なのに、それを6時間フルマラソン

やり終えた参加者に拍手です。

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万緑叢中紅一点

見渡す限り緑の草むらに赤い花が一つあること。

「多くの男性の中に女性がただ一人」との意が発生し、今は「紅一点」のみで使われる。

もとは中国の王安石の詩。

そこから取った「万緑」を中村草田男が季語として定着させた。

『万緑の中や吾子の歯生え初むる』

(毎日新聞:5月4日朝刊)

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